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人生これからが本番―聖路加国際病院理事長:日野原重明

 私の所感をひと事でいうと、人間の死は若ければ若いほど悲惨であり、生木を裂く感じが強い。それに対して老齢の死は自然の死に近づくことが多いと言える。プラトンは老人の死は、「死の中でももっとも苦痛の少ないもの、いや、苦痛よりも、むしろ快楽を伴うものである」ともいっている。私の看取った一番の高齢者は鈴木大拙師である。先生は90歳を過ぎてからも浄土真宗の親鸞聖人の「教行信証」という経典の英訳にとりかかられ、まさに、現役の最中で急性腸閉塞を患い、96歳で亡くなられた。先生は90歳を越えられた時、秘書の岡村美穂子さんに「90歳にならんと分からんことがあるのだぞ、長生きをするものだぞ」と言われた。96歳での聖路加国際病院での最後は、実に平静な心が満ちあふれていた。(p124)
  実際の死に触れる機会が極端に少なくなってしまった現在、私たち大人は、もっと子供たちに死を語り、そこから命というかけがえのないものへの気付きを導かなければならないだろう。それに気付かないまま、人の命をもてあそぶような犯罪を犯す少年の事件が多発している。その責任の多くは、大人の側にある。
  人は病を得て初めて、健康な生活の価値を知る。死もまた人に生の意味を教えてくれる。だから老いたならば、人はだれでも死を思い、その準備をする。しかし本当は老いてからでは遅いのである。壮年、青年、いつの時期にも私たちは死に備えなければならない。
  死に備えるというのは、まず死を想い、その死からさかのぼって今日の1日という日をいかに生きるべきかと自らに問うことである。死から逆算して残りの時間に怯えるのではない。与えられたせっかくの1日を、生き生きと潔く生き抜くことだ。それこそが、器いっぱいに命を満たすということではないだろうか。(p200)
  一般に老化による変化と思われていることの多くが、実際には不注意や不摂生による病気や障害の場合が多い。老化や死は避けがたいものではあるが、本当に老衰で亡くなる場合、その死はきわめて穏やかなものとなる。それは器いっぱいに満たした命が、天に召される荘厳な瞬間である。できる限り健康を維持し、誰もがそのような死を迎えたいものである。(p213)
  年をとって良いことの一つに、私利私欲がなくなるということがある。2006年(平成18年)には97歳になろうという私には、ほとんどそれが残っていない。しかし、だからといってやりたいこと、取り組まなければならないことがなくなったわけではもちろんない。むしろ最近ではそれが日増しに増えている。今の日本社会にはそれほど多くの問題が山積している。
  まず医師である私がもっとも気になるのは、医療の改革である。日本の医療のシステムは、アメリカなどに比べると明らかに遅れている。またアメリカかといわれそうだが、ノーベル医学賞をみても創設以来、1人の受賞者も出していないのが日本の医学界なのだ。そんなものが医療の水準を測る尺度になるか、という人もいるかもしれない。しかし他の分野では受賞者を輩出し、しかも多くの優等生が医師という職業に就いている国であるのに、この百年間医学部出身者のうち1人の受賞者もいないというのは、日本の国力その他から考えても異常事態だと私は思っている。もちろんこれは医療従事者の資質の問題ではない。医師を育てるシステムが問題なのだ。(p224)
  子供たちの教育も同じだ。教育というのは、学校の先生だけがやればいいのだろうか。そうでないことは明らかである。子供たちは社会全体で育てなければならない。ところが教室で教えるのは、(社会を知らない)教員の資格をもった人だけである。これは日本の教育を貧困にしている大きな要因である。
  救急医療のことをいえば、法律の改正以前に救急救命士が気管内挿管をしたということで訴追されるという事件があった。しかしこの時の患者さんはこの処置のお陰で一命をとりとめたのにである。にもかかわらず日本では、資格の有無だけが問題となって、人の命を救った人が訴追されるのである。(p224)
(人生、これからが本番―私の履歴書:日野原重明著、日本経済新聞社)